和泉流の歴史
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(7)<名古屋和泉流の名家>

 この山脇和泉家のほかにも尾張藩お抱えの狂言師、いわゆるお役者として代々続いた家には、以下の三家がありました。
(山脇藤左衛門家)
 前姓佐々藤左衛門家。京都時代からの山脇和泉の弟子で、前述のごとく元和元年に召し出されるが、その後いったんお役御免となり、寛永年間になって再び抱えられた家である。正徳元年(1711)3代目藤左衛門の時に山脇姓を許され(『代々勤書之覚』、『藩士名寄』)、以後明治維新まで山脇弟子家として続いた。やはり京都住のまま抱えられていたが、7世山脇次兵衛の代に尾張に居を移したとされている。
(早川幸八家)
 早川幸八家は、初代忠三郎が元禄3年(1690)に雇御用を仰せ付けられ、その後元禄9年より正規にお役者として召し出された家である。3代目和泉元信の弟子であった。一説には山脇家の下男で門前の小僧なみに見様見真似で狂言を修得したとも伝えられるが(伊勢門水『和泉流狂言記』)、天保末頃書写された城下各町のいわれと、そこに住む著名人を掲げた『金鱗九十九之塵』(桑山好之著)では以下のように伝える。
米倉町
乱舞狂言和泉流 御役者 十五石扶持二人分 早川幸八
此早川の先祖は巾下に住し商家のよし。狂言を能す。或時御能に出勤す。公のたまわく、よが名はいかにと御尋被遊候時、はったと我苗字忘れたり。本苗早稲田成しを早川とぞ申上たり。夫より改名して、代々早川と名乗る。
(野村又三郎家)
 さらに尾張藩のお抱えとなった家には、野村又三郎家がある。慶安2年(1649)に近衛公のもとでの演能に、2代目又三郎が初めて初代山脇和泉の相手を勤め、その後明暦3年(1653)に3代和泉元信に正式に弟子入りをしている。3代目又三郎の代となって、正徳3年(1713)に尾張藩に抱えられ、その後代々京都住いのまま御用の都度尾張に出勤することとなった。

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