和泉流の歴史
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(10)<狂言共同社の結成>  完

共同社結成の成立員となったのは、角淵宣、井上菊次郎、伊勢門水、河村鍵三郎、三橋正太郎、山本久平、田中庄太郎の七名と伝えられています。
 角淵は旧尾張藩士で本職は弁護士、また第一期の名古屋市会議員まで勤めた名家でした。山脇得平の門下で、後に明治40年には宗家山脇元清から佐々藤左衛門名義の相続を許されました。人望も厚く当時の名古屋能狂言界でも重きをなす存在でした。
 井上は「播磨屋」の屋号を持つ仏具商で、本名井上重兵衛。早川幸八門。すでに嘉永6年に8才で尾州家城内の舞台に出演しています。明治40年には早川家の名義相続を許されており、晩年は家業を子息に譲って上京し、中央でも名人として名を成しました。
 伊勢門水は本名水野宇右衛門(7代目)、伊勢屋の屋号を持つ旗商で、水の上の門を洒落て門水と号しました。やはり早川幸八門。狂言画家としても有名で、文筆もたち、舞踊の脚本や新作狂言のほか、数々の遺作が遺されています。名古屋の生んだ一大風流人としても著名で、現在その居住跡は「伊勢門水居住地」として名古屋市の史跡指定されています。
 河村は「萬武」の屋号を持つ酒造業で、代々武七を名乗りました。九世野村又三郎信茂の門下。自宅の土蔵で共同社の装束・道具類の管理に当たり、会計・書記などの事務処理も引き受け、さらには町人商家の弟子を多くとり、その指導にも熱心でした。
 残る三名についてはそれぞれ、田中庄太郎は山脇得平門、山本久平は野村又三郎門、三橋正太郎は早川幸八門とされていますが詳細は不明です。先の石碑に名を刻した内に山本久平の名が見えませんが、山本姓の名が二人見られ、上段右から当時狂言界に占める序列、或いは年功等を配慮して並べたふしが見受けられるので、山本政守と言うのが久平の本名、或は商売名かとも推測されます。
 なお石碑上段に名を掲げた人の内で、磯部三段治、田中全三郎の二人が共同社結成に参加していません。磯部は尾張藩先手同心で本名を磯部定治美平と言い、廃藩後に狂言師匠として主として町家の弟子を取って教えていたようです。この前後の演能記録にしばしば名前は見られますが、明治24年の共同社結成以降は全く名前が見られなくなります。ワキ方故西村弘敬氏の話によると、この後は柴田穀彦氏の稽古能にしばく出演していたとのことです。明治35年に74歳で没し、戒名も「園林狂遊居士」と付けられています。田中全三郎については詳細は不明で、磯部同様に共同社結成以後の出演記録は残りません。
 共同社を結成した彼等は、各自の家に所蔵していた狂言に関するものを持ちより、共同社管理の下に置きました。また維新後生活に窮した宗家や、狂言諸家が手放したと思われる装束、面、伝書の類を精力的に回収しました。規約が定められ、出演依頼などの窓口は共同社一本に統一、演ずる曲、配役などもすべて合議制で決定、出演料はすべて共同社の会計に入金され、諸経費が明らかにされ、積み立て金を決定した上で、会員に配当されることとなりました。もっとも出演料などあてにしないお歴々ばかりで、実際はことあるごとに飲んでしまうと言う具合だったようです。『一致協力』と『全員出勤・全員奉仕』の二大原則が打ち建てられ、以後の共同社の拠って建つところとなったものです。

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