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佐藤 秀雄

佐藤 秀雄(さとう ひでお)

 明治452月、中区末広町の文具問屋「佐藤静偲堂」の次男に生まれた。店は当時一閑張りの文具用品で繁盛し、西日本を中心にかなり手広く商売をしていたと言う。当時の本町界隈の商家の子弟は幼児に礼儀作法を身につけ、人前ではっきりと話す訓練を目的に能狂言の稽古に通わせることが多かったようで、一代で財をなした秀雄の父も、それがステータスだと言わんばかりに、長男には謡曲、次男の秀雄には狂言を習わせた。入門は同じ町内の井上鐵次郎(後に二世菊次郎)。歳の近かった松次郎、礼之助らと一緒に稽古させられることが多く、生涯を通じてこの三人が共同社の一時代を築くこととなった。

 その後公私とも河村鍵三郎家に出入りすることが多くなり、又三郎系の芸を身につけた河村丘造、佐藤卯三郎らの相手を勤めることが多く、自然又三郎家の芸風をも加味したものとなったようである。

 秀雄は小柄な身体で、舞台でも特に目立つ存在ではなかったが、それだけにむしろ相手役に廻ると真価を発揮したようである。自ら狂言共同社の番頭役を自認し、間狂言を数多く演じた。珍しい能の時は必ずと言ってよいほど間狂言には秀雄の名があった。陰では「面倒くさい物はすぐ俺に押し付ける」などと愚痴ったりしていたが、結構本人はそれを誇りにしていた向きもあるようだ。「『融』や『巴』の間だったら、俺は逆さまにだって語ったる」などと豪語したりもした。

 昭和50年、孫の融の初舞台に長男友彦と三代での「靱猿」の猿曳きを勤め「もう俺は狂言に思い残すことはない」などと感傷的なことを思わず口にしたりしたが、そんな予感があったのかもしれない。その後間もなく体調を崩し、次第に舞台からも遠ざかり療養の身となる。

昭和592月没、享年71歳。

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佐藤 秀雄(左/猿曳)狂言「靭猿」

佐藤 卯三郎(大名)

佐藤 友彦(太郎冠者)

佐藤  融(小猿) 

 

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